「驕兵必敗、哀兵必勝」とは古人の言葉です。しかし「驕兵」であれ「哀兵」であれ、いずれも人の主観的意識によって判断されるものであり、哀兵かどうかは当事者の認識の程度にかかっています。もし既に「哀」であるべき立場にありながら、なお「驕」の心構えを抱いているならば、「哀兵」も必ずしも勝てるとは限りません。
したがって、いつ「哀」であるべきかは一つの基準を設ける必要があり、それはすなわち私たち自身が心の満たす基準を定めることであり、この基準を上回れば「驕」とし、下回れば「哀」とします。基準の高低は人の認識と直接の関係があります。
一つの組織、一つの集団が真に「哀」の段階に至ったなら、怒りを爆発させ懸命に追い上げる以上に重要なのは、その「勝利」を得るために採る戦略・戦術です。企業に即して言えば、それは大胆な改革です。
「成発」が当初実施した一人当たり180元の戦略は、企業を前進させるどころか、かえってより深刻な結果を招きました。ゆえに「哀兵」も必ずしも「必勝」ではありません。「哀兵」の戦略・戦術の運用が不適切であれば、「窮途」に向かうおそれもあります。
確かに「哀兵」は通常の団体や個人が発揮しがたい水準を発揮しやすいものです。しかし、私たちは「哀兵」でしょうか。
同ドキュメンタリーには「史を鑑とすれば、興替を知り得る」という一節がありますが、若い宏業の従業員には鑑みるべき「史」がありません。だからこそ、私たちは自分たちを「哀兵」だとは思いません。若い世代の宏業人は宏業の「継往開来」を担う者であり、「哀」の鳴き声を上げるのではなく、突撃の角笛を吹き鳴らすのみです。
ゆえに、私たちは「哀兵」ではありません。私たちには「悲憤」はなく、あるのは勇往邁進する勇気であり、あらゆる艱難辛苦を圧倒する覇気であり、宏業に身を置き国のために青春を捧げる豪気です。
しかし人は往々にして「憂患に生き、安楽に死す」もので、形勢が良いときには苦難の道のりを忘れがちです。激しい市場競争の中では「逆水行舟、進まざれば退く」であり、私たちは「哀」の到来を待つことなく、時代の波に乗る者となり、市場の先頭に立ち、「哀兵」にはいつまでも哀でい続けてもらいます。
もし強いて私たちを哀兵と呼ぶなら、私たちは哀兵の心構えを抱き、驕兵の姿勢で前進する雄兵となるでしょう。勝利に終わりはないからです。